綾瀬の歴史~近・現代~

更新日:2023年02月01日

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明治時代

 明治新政府の成立と神奈川県の発足から、明治維新の改革が始まります。
綾瀬市域の諸村は、旗本領であった6ヶ村(深谷・寺尾・早川・蓼川・本蓼川
上土棚)が神奈川県に編入されました。新政府の施政方針は、村々で「五傍の掲示」により示されました。
  政府は1872(明治5)年に学制を公布し、国民皆学を宣言しました。初期の学校は寺子屋の域を出ませんでしたが、綾瀬市域では深谷をはじめ6つの学校が開校しました。その後に発布された「教育勅語」により国家主義教育が制度化されましたが、綾瀬村ではこれまで通り6校体制が維持されましたが、1900(明治33)年教育令の改正により、尋常高等綾瀬小学校1校と4つの分教場に統合整備されました。
 地租改正は農民の土地所有権と年貢の代替に土地の3%を税率とした税金を土地所有者に納めさせる近代的租税制度の始まりとなります。神奈川県下では県の指導下で村絵図の作成から調査等農民の負担と責任で行われました。しかし、地租率などをめぐり全国各地で激しい反対運動が起こり、神奈川県内では平塚の真土村や横浜の瀬谷村の事件が知られています。
 明治時代で近代日本が経験した最初の外戦として日清・日露戦争があります。この戦争に勝利した日本は、一躍世界の列強に加わりますが、同時に村の疲弊は著しいものとなりました。荒廃した農村再建を目指す運動が地方改良運動です。この運動の中で注目されたものに、吉岡報徳社の活動があります。報徳社は二宮尊徳を開祖とした結社で、「勤労倹約」と「分度推譲」という農民生活と村の再生を図る仕法として知られています。

大正時代

 大正デモクラシーとよばれるように、民本主義が叫ばれ自由主義が流行した時代です。教育文化の向上と共に、民衆の間で新聞や雑誌が読まれ、大衆文化が開花していきます。
 綾瀬にもその文化が波及してきました。学校では教師の手で「綾瀬村詩」のようなすぐれた郷土学習読本が作成されています。また一方でこの頃から女性の活躍が目立ち始め、教師や遠くアメリカに遊学する女性も現れました。
 1923(大正12)年9月1日、南関東を襲った関東大震災は綾瀬にも甚大な被害をもたらしました。その災害書類は綾瀬にもかなり多く残っています。
その中でも貴重なものとして当時の村長小柳勝一の「震災記録」があります。直接体験しただけに、その内容は実に生々しい描写に満ちています。

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