綾瀬の歴史~近世~

更新日:2023年02月01日

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江戸時代

 関東における戦国の争乱は、5代100年にわたり覇権をとなえた小田原北条氏が豊臣秀吉の軍門に降りたことで終わりました。
 小田原合戦の際、市域の小園村領主金子氏や吉岡村岡本氏・寺小村加藤氏等々は敗戦によりそれぞれの村に土着し、以後村の有力農民として続いていきます。この農民化は中世社会の終わりを如実に示す象徴的な事実であり、近世社会となる兵農分離の社会がここから始まります。
 1600年天下分け目の合戦である関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は同03年征夷大将軍となり、江戸幕府を開設。その後1867年の大政奉還に至るまで幕府支配は続きます。
 関東の新たな領主である徳川家康は、まず所領の設定=領主の配置を行います。江戸を中心として、同心円状に蔵入地(直轄地、後の幕府領)、旗本知行地、藩領を設定しました。この後、地方直し(じかたなおし)により幕領の旗本領化が著しく進展し、小田原藩領であった各地域の多くは幕領から旗本領へと支配が替えとなりました。
 綾瀬市域8ヶ村の領主は、将軍徳川氏の直臣である旗本が中心でした。また、旗本領以外では藩領も設定され、その中には春日局に縁のある例や田沼意次領も存在していました。
 近世は別に開発の時代とも称され、(1)従来から存続する本田畑の周辺を開発する切添(持添、切開)の開発 (2)広範な土地を開発する新田開発があります。
相模国でもこの二つの開発が積極的に行われた結果、綾瀬の場合1590年当時は吉岡村・上土棚村・蓼川村・深谷村・寺尾村・早川村・小園村の7ヶ村でした。特に開発が進んだのが深谷村・蓼川村で、それぞれ深谷新田・蓼川新田が成立しています。
 深谷新田の開発は村自体で行い、このような開発を村請(むらうけ)新田といいます。また、蓼川新田は商人による開墾のため町人請負新田と称されます。新田開発により立川村は本蓼川村と改称され、市域8ヶ村がまとまりました。
近世後期の市域の村と農家の様子を知る貴重な資料として、渡辺崋山の「游相(ゆうそう)日記」という紀行文などがあります。また、この頃の村人の日記からも生活の記録が伺えます。さらに、宮久保遺跡からは近世の生活用具や近世屋敷跡が発見されています。
 ペリー来航により国際社会との交流が始まり、開国に反対する尊皇攘夷派による倒幕運動展開により、幕府は内外から揺さぶられていきました。このような中で、15代将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌年、鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府側は江戸城を明け渡し、江戸時代の終焉をむかえました。

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