綾瀬の歴史~原始・古代~2

更新日:2023年02月01日

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古墳時代

前方後円墳などの巨大な墳墓が全国にひろがる3世紀後半から、都が平城京へと移転するまでの間を広い意味で古墳時代と呼んでいます。
 5世紀には巨大古墳が造られ、6世紀になると古墳を築造する風習が人々の間に拡大し、群集墳が造られるようになります。このころ同時に「横穴墓(おうけつぼ)」とよばれる集団墓が構築され、綾瀬市内では吉岡横穴墓群があります。
 古墳時代は墳墓が出現すると同時に国家の成立する時代でもあります。この頃から天皇を中心とした中央集権国家成立を目指し、645年中大兄皇子らにより蘇我氏が滅ぼされ「大化の改新」と呼ばれる政治改革が行われます。その後701年に「大宝律令」が制定され律令国家としての歴史を築き始めました。
701年(大宝元年)以降、綾瀬市の大半は相模国高倉(たかくら)郡に含まれています。その後「倉」(くら)の文字は、縁起のよいとされる「座」(くら)に変更され「高座(こうざ)郡」になったと考えられています。大和市の「深見神社」や海老名市の「有鹿神社」は律令国家当時の名称を今に伝えるものとされています。

奈良・平安時代

奈良の平城京を都とした710年から794年までの、天皇を中心とした律令国家支配の時代を奈良時代とよび、京都の平安京を都としてから、平家が滅亡するまでの時代を平安時代といいます。この時期の綾瀬市内の遺跡をみると、高座郷にあたると思われる西部に濃密な分布がみられ、相模国の役所であった「相模国府」や高座郡の役所であった「高座郡家」に関連する遺物も出土しています。
 綾瀬市内の奈良・平安時代の遺跡としては、宮久保遺跡や早川城山遺跡があります。宮久保遺跡からは、荷札として使われていたと考えられる木簡や「高坐」と墨書きされた土師器(はじき)や奈良三彩小壺(ならさんさいこつぼ)が出土しています。また早川城山遺跡からも奈良三彩小壺の蓋が出土しています。

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