綾瀬のあゆみ~古代から現代まで~
綾瀬市の歴史は、旧石器時代からはじまり、市制施行40周年に至るまで約4万年にわたります。
各時代のより詳しい内容、遺跡の詳細については綾瀬市史をご覧ください。
旧石器時代から弥生時代
旧石器時代
市内の各地で旧石器時代の石器が発見されています。
吉岡遺跡群は、南関東最古級である約4万年前の石器や、約2キロメートル離れた用田鳥居前遺跡(藤沢市)出土石器と接合する石器が出土し、旧石器時代の人の移動がわかる遺跡として注目されています。
寺尾遺跡では、ナイフ形石器や石器がまとまって出土するユニットが検出されています。
規模の大きい遺跡が多く、出土する遺物も多いことから、旧石器時代の人々にとって生活しやすい環境だったことがうかがえます。
縄文時代
道場窪遺跡出土土器
市内各地で縄文時代の集落や土器・石器など人々の生活痕跡が発見されています。
道場窪遺跡は、縄文時代中期の環状集落の一部です。発掘調査は現在リサイクルプラザが建っている範囲のみ行ないましたが、28軒の竪穴住居跡と多くの土器、高さ約70センチメートルの大型土器が出土しました。
上土棚南遺跡では、大規模な集落と共に中空土偶や筒形土偶、石棒など祭祀に関する道具が出土しています。
市内の発掘調査の結果、縄文時代草創期から後期後半まで、約9,000年という長い年月にわたって人々が暮らしていたことがわかりました。
しかし、縄文時代後期後半から弥生時代中期にかけての遺跡は見つかっておらず、人がほとんど住んでいなかったと考えられます。
網目模様が入った大型土器の前に「綾瀬最大の土器」と書かれたプレートが置かれ、周りには沢山の出土した土器が並んでいる写真 拡大画像 (JPEG: 122.3KB)
弥生時代
神崎遺跡出土土器
弥生時代中期までの遺跡は少なく、土器などの生活痕跡も見つかっていないことから、人が住んでいなかったと考えられます。しかし、弥生時代後期になると、東海地方から移住してきた人々により綾瀬に人の暮らしが戻ってきました。
東海地方から根恩馬周辺(現在の吉岡字神崎)に人々が移住してきてムラ(神崎遺跡)を形成しました。神崎遺跡は、V字の環濠に囲まれた集落です。出土した土器の95%以上が東海地方西部の土器に酷似しています。
弥生時代の人の移住がわかる遺跡であり、集落の全貌がわかる遺跡として国の指定史跡に登録されています。
薄手で簡素に作られている高坏や壺型、鉢型の5種類の弥生土器の写真 拡大画像 (JPEG: 828.4KB)
古代〜近世
古墳時代~古代
目久尻川流域では、集落や土器、横穴墓が発見されています。
伊勢山遺跡では、古墳時代~古代にかけての住居跡や土器が大量に検出されました。
吉岡周辺では、横穴墓が数基確認されており、玄室の造りや勾玉などの出土品から7世紀に造られたと推測されています。
古墳時代の遺跡が少ない綾瀬ですが、伊勢山遺跡では「かまど」を持った住居が複数見つかり、周辺には横穴墓もあることから、目久尻川流域は古墳時代の綾瀬の中心地だったと考えられます。
古代になると、綾瀬市域を含む高座郡の記述が日本書紀に現れます。早川の宮久保遺跡からは、奈良三彩の小坪の破片や天平5(733)年の銘をもつ「鎌倉郷鎌倉里」と書かれた木簡が出土しており、高座郡の要所だったのではないかと考えられています。目久尻川上流には相模国分寺(海老名市)もあり、古代相模の中心地域だったとも推定されています。
中世
武者の絵「綾瀬誕生100年記念 綾瀬ときの流れ」より
鎌倉時代には、幕府の有力な御家人として活躍した渋谷一族が当地を支配しました。
「渋谷定心置文(しぶやじょうしんおきぶみ)」には、「落合・深谷」の地名がみられ、鎌倉時代中ごろの綾瀬の様子が伝えられています。
渋谷氏の城跡だと伝えられる早川城跡では、土塁や物見塚、空堀跡などが見つかっており、中世の山城の面影が残ります。
市内にはほかにも、14世紀から15世紀に造立した地蔵菩薩坐像や板碑群、日蓮上人が佐渡へ配流される途中に休憩をとったと伝えられるびわみ堂などがあります。
甲冑を身に着け、弓を持っている武者の絵「綾瀬誕生100年記念 綾瀬ときの流れ」より 拡大画像 (GIF: 16.6KB)
江戸時代
寺尾台の道祖神
江戸時代には台地の新田開発が盛んに行われました。領主は、将軍徳川家の直臣である旗本が中心でした。領主の中には、村内に先祖代々の菩提寺を起立する家もあり、領主と村との関係が深かったと考えられます。
各村では地域や信仰ごとに講中と呼ばれる互助協働組織が成立し、冠婚葬祭や年中行事などをおこなっていました。その際に造られた、庚申塔や道祖神といった石造物は現在も市内の各地でみることができます。
目久尻川流域には、春日局に縁のある地域や局が使ったといわれる茶臼・茶釜が伝わるお寺もあります。
複数の大きな石が周りに置かれ、文字が刻まれ、長方形の形をした寺尾台の道祖神の写真 拡大画像 (JPEG: 342.8KB)
近現代から現代へ
近現代
明治22年に市制・町村制が施行され、8か村が合併し「綾瀬村」が誕生しました。
昭和12年の日中戦争勃発とともに軍備が拡充され、同16年には市北東部に相模野海軍航空隊などが設置され、厚木航空基地ができました。厚木航空基地は首都防衛の主要基地でした。同20年4月1日、軍施設設置による人口増を背景に町制が施行され、「綾瀬町」となりました。
8月に敗戦をむかえた後、30日には連合国軍総司令官のマッカーサーが厚木航空基地に降り立ち、米海軍の厚木基地となりました。
昭和40年以降、工場の進出や宅地造成により人口が著しく増加しました。市の北部・西部は主に住宅が立地し、東部・西部は工業団地が形成されました。昭和53年11月1日には市制が施行され、「綾瀬市」が誕生しました。平成元年4月には「綾瀬」誕生100年となりました。
平成30年に「綾瀬市市制施行40周年」を迎え、神奈川県で最も新しい市として、自然豊かな活気あふれる都市として現在に至ります。
綾瀬市の歴史に関する資料をお持ちの方は、下記の担当へ情報をご提供下さい。
この記事に関するお問い合わせ先
- 綾瀬市ホームページをより使いやすくするために、皆様の声をお聞かせください。
-
更新日:2023年02月01日