厚木基地の概要
沿革
厚木基地写真
厚木基地は、昭和16年に建設が開始され、本市の深谷、蓼川、本蓼川のほか、大和市の一部を含む約500ヘクタールに及ぶ広大な敷地に、相模野海軍航空隊(航空機の整備兵教育を担当する部隊)が設置されました。その後、厚木海軍航空隊(厚木戦闘機隊と呼ばれる)や高座海軍工廠(航空機の機体製造を行う工場)が設置され、帝都防衛の主要基地となりました。
昭和20年8月15日に太平洋戦争が終結し、同月30日、連合国軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥が到着し、日本における占領政策の第一歩がこの厚木基地から始められ、日本の新たな歴史が始まりました。
昭和20年9月2日、本飛行場が正式に接収され米陸軍の管理下におかれました。
その後、朝鮮戦争の勃発に伴い、米軍は極東地域における海軍航空基地の必要性から、荒れ果てた滑走路や建物を修復し、昭和25年12月1日、米海軍厚木航空基地を正式に発足させ、以来今日まで米海軍の主要な航空基地として使用されています。
なお、昭和45年に米軍の海外基地再編計画が発表され、大きな居留部隊や飛行部隊が他の基地に移駐しました。これに伴い飛行場管制権を含む飛行場施設の大部分が日本側に返還され、昭和46年7月1日、米海軍は「米海軍厚木航空施設」に、また、海上自衛隊は「厚木航空基地」として、いわゆる日米共同使用の基地となりました。
その後、昭和48年10月、米海軍第7艦隊所属空母ミッドウェーが横須賀を事実上母港化して以来、空母航空部隊の後方支援基地としての役割を担っています。
平成18年5月1日に日米両政府が合意した在日米軍再編の一環により、空母艦載機約60機の岩国基地(山口県)への移駐が決まり、平成30年3月30日をもって、移駐が完了しました。
周りに建物などが立っている中央にある広大な敷地の厚木基地を上空から写した写真 拡大画像 (JPEG: 349.7KB)
名称の由来
厚木基地は綾瀬市と大和市にまたがって所在しており、厚木市にはありません。なぜ厚木基地という名称なのか、由来については諸説ありますが、いずれも確証がなく、解明には至っておりません。
昭和18年、相模野海軍航空隊内に設置された、厚木航空隊の名称を地元の名称に由来するものに変更してほしいと、当時の村長らが海軍に請願したこともありました。離れた地名である厚木の名を付けるのは変である、航空隊入隊者とその携行品が基地に届かず厚木に到着してしまう等の理由からです。しかし、海軍からの回答は変更できないというものでした。
概要
厚木基地には米海軍厚木航空施設司令部のほか、第72任務部隊司令部、西太平洋艦隊航空司令部、第7艦隊ヘリコプター部隊、第5空母航空団ヘリコプター部隊が配置されています。
また、米海軍と共同使用している海上自衛隊は航空集団司令部が置かれ、哨戒機P-1を運用する第4航空群司令部や第51航空隊、第61航空隊、航空管制隊等が配置されています。
(1)名称 | 厚木海軍飛行場(FAC3083) |
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(2)所在地 | 綾瀬市深谷、蓼川、本蓼川 大和市上草柳、下草柳、福田、本蓼川 |
(3)面積 | 約505.6ヘクタール 綾瀬市分:約394.4ヘクタール(行政面積の18%弱) |
(4)主な施設 | 滑走路(延長2,438メートル・幅45メートル・オーバーラン両端各300メートル) 管制塔・格納庫・兵舎・住宅・倉庫・事務所・体育館等 |
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更新日:2023年02月01日